刑事裁判の歴史と展望あれこれ💖

刑事裁判の歴史と展望あれこれを広めます https://mementomo.hatenablog.com/entry/39862573

刑事裁判の歴史と展望あれこれ--自分の歩みと重ねつつ 安廣 文夫

1 はじめに
裁判員制度が定着しつつある現時点において、我が国の刑事裁判の歴史を振り返ると、大きな節目は三つある。第1は、明治初期の西欧法の継受であり、第2は、第二次世界大戦の敗戦後の現行刑訴法におけるアメリカ法(米国法)の強い影響であり、第3は、裁判員制度の導入を中心とする平成の司法制度改革である。本稿においては、これらの全般を論述するのではなく、無事に古稀を迎えた私の歩みと重ねつつ、随想風に歴史を振り返り(本書の執筆者各位にも馴染みが薄いであろう古い時代をやや詳しく記した)、今後の我が刑事裁判制度における課題等を展望してみるにすぎない。
私は、昭和19年に福岡市で生まれ、小学2年次に大分県中津市に移り、昭和38年に中津北高校を卒業して、東京大学(法学部)に進学し、司法修習(21期)を経て、昭和44年4月判事補に任官し、平成21年8月東京高裁判事(部統括)で定年退官し、その後は中央大学法科大学院で教職につき現在に至っている。
郷里中津は福澤諭吉の出身地であり、父親に勧められ、小学5年頃から「福翁自伝」「学問のすすめ」等を愛読するようになり、明治時代の我が国の近代化の過程に持続的に関心を抱くようになった(小中高の校歌にも福翁の名前やその言葉が歌い込まれていた)。そのためか、大学で法学を学び始めてからも、明治時代の西欧法継受の過程に興味を持ち、北川善太郎『日本法学の歴史と理論』(昭和43年・日本評論社)等を愛読してきた(なお、福翁の法律に関する著述については、安西敏三ほか編著『福澤諭吉の法思想』《平成14年・慶大出版会》参照)。また、大学で刑訴法の勉強を始めた時、現行刑訴法の法典と平野龍一『刑事訴訟法』を読み比べて、法典の編成の分かりにくさに辟易し、法典を理解するには、旧刑訴法を勉強するほかないと思い至り、判事補の初期までにかなりの文献を集めて読み耽ったことがあるし、その頃、旧刑訴法下における訴訟の実際をも記した三宅正太郎『裁判の書』(昭和17年・牧野書店。昭和30年角川文庫)を愛読しており、「刑事訴訟(法)が数多の点に於て改定されても、事件に対して裁判官の持たねばならぬ根本精神には、いささかの変りがある筈はない。それは、あくまでも正義の顕現に外ならないのである」との解説(福井盛太・検事総長等を歴任)に共感しつつ、影の部分が強調されることの多い旧刑訴法の光の部分に関心を抱いてきた(影の部分を否定するわけではない)。さらに、判事補任官後、まもなくメーデー事件の記録を閲読する機会に恵まれたこともあって、現行刑訴法施行後間もない時期における刑事裁判実務の状況にも関心を寄せてきたものである。
以下、『日本政治裁判史録』(明治前、明治後、大正、昭和前、昭和後)及び『戦後政治裁判史録』(①~⑤)(昭和43~55年・第一法規)に掲載されている事件については、その概要の記載を省略し、「史録」と略して該当の巻・頁を示すにとどめる。
2 旧刑訴法の制定にいたるまでの西欧法の継受
⑴ 徳川幕府が開国に際して諸外国と締結した修好通商条約は、日本に関税自主権がなく、在日外国人に治外法権を認めるという不平等条約であり、これを平等な条約に改正することは、明治初期における国家的中心課題であった。欧米諸国は、自分たちと同じような近代的な法律・裁判制度を有している国でないと対等扱いしないという態度を崩さなかったので、明治政府は、急いで欧米諸国に見劣りしないような法律・裁判制度を造り上げねばならず、はじめは、フランスが最も立派な法典を整備していると判断して、ボアソナードら第一級の法学者を高給で招き、日本の法律の起草を依頼した。その結果、明治13年にボアソナードの草案に基づき、フランス法を継受した刑法(旧刑法)及び治罪法が制定され、これらは明治15年から施行された(ただし、治罪法からは、その草案にあった陪審制度は削除されている)。明治23年に大日本帝国憲法(明治憲法)及び裁判所構成法が施行されるに伴い、治罪法も改正されて「刑事訴訟法」(旧旧刑訴法)になったが、内容的にはほぼ同様のものであった。しかし、その間、普仏戦争でプロイセン(ドイツ)がフランスに勝ち、ドイツが勢いを増して、法典を整備し、法律学にもめざましい進歩を見せ、ドイツへの留学派遣が活発化し、明治憲法以下のほとんどの基本法がドイツ法を手本として作られるようになった。明治40年にはドイツ法の影響を強く受けた新しい刑法(現行刑法)が制定され(明治41年施行)、大正11年にはやはりドイツ法の影響を強く受けた新しい刑事訴訟法(旧刑訴法)が制定される(大正13年施行)に至った(大正12年制定の陪審法に関する説明は割愛する)。
治罪法及び旧旧刑訴法については、日本人にとっては、立法の過程とフランス法の学習の過程が重なっていたというほかないのに対し、旧刑訴法については、日本人がドイツ法を十分に咀嚼した上で、これを範としつつ、しかも、ドイツの起訴法定主義に対し、起訴便宜主義を採用するなどの改変を加え、自主的に制定した、いわば手作りの法典ともいえる。
⑵ 以上のような法典の整備に先立ちあるいは並行して、西欧法を教授する教育機関が設立されて(司法省明法寮、司法省法学校、東京大学、私立法律学校)、司法官が養成され、司法機構も整備されていった(明治時代の法律家については、岩谷十郎『明治日本の法解釈と法律家』(平成24年・慶大出版会)、小林俊三『私の会った明治の名法曹物語』(昭和48年・日本評論社)等参照)。しかし、明治初期には、西欧法の知識がない者が多数判事、検事に任官していたところ、その後、法学の教育機関や試験制度が整備されてきたため、明治26年頃からは、法学教育を受けていない司法官の淘汰が開始され、明治32年までに多数の退職者を出した(荒井勉ほか『ブリッジブック近代日本史法制度史』182頁以下(小柳春一郎)、加太邦憲『自歴譜』(岩波文庫)170頁以下参照)。余談であるが、私は、法科大学院発足後、その教育が充実の度を深め、その教育効果の持続性が定評となれば、旧司法試験で法曹資格を得た法曹は、見劣りするようになり、そのうちに淘汰されることになるかもしれないよなどと、司法修習生や若手裁判官に話してきたが、最近は予備試験制度が人気を博するようになり、そのような心配は全くの杞憂に帰したようである。
3 旧旧刑訴法及び旧刑訴法下における審理状況
⑴ 旧旧刑訴法の下では、刑事裁判は総じて迅速に行われており、足尾鉱山暴動事件(史録・明治後424頁)は、兇徒聚集罪で38名が公判に付されたが、事件発生から第1審判決まで7か月であり、日糖事件(史録・明治後486頁)は、衆議院議員20余名の収賄事件であるが、強制捜査の開始から第1審判決まで3か月余りであり、公判は週2回以上で連日開廷も珍しくなかったようである。大正期に入ると、開廷間隔が1,2週間の事件も現れるようになり、そのため、旧刑訴法に開廷間隔が15日以上になった場合には公判手続の更新を要するとの規定(353条)が設けられた(松尾浩也『刑事訴訟の理論』174頁)。
⑵ 旧刑訴法の下では、予審及び第1審公判の期間が長期化する傾向がみられ、例えば、帝人事件(史録・昭和後52頁)は、政財官界の大物ら16名が贈収賄等で起訴された大型事件(弁護人も多数)であり、予審に約1年を要した後、2年半の間に、265回の公判を重ねて、全員無罪の第1審判決が言い渡されている(松尾・前掲書457頁)。判決は、起訴を「水中ニ月影ヲ掬セントスルノ類」と痛烈に批判したが、検察官控訴はなく確定した(後に最高裁長官となる石田和外判事が左陪席として判決を起草したのであるが、私はこのことを想起しつつ、石田長官から判事補の辞令交付を受けた)。当時は被告人らに対する苛烈な取調べとともに、裁判の長期化も批判されているが、予審を含めて3年半余りで第1審判決に至っており、現行法下における長期裁判と比較すれば、むしろ極めて迅速な裁判であったと感じられる(公判前整理手続導入前の現行刑訴法の下では、第1審判決までに10年以上を要したであろう)。
なお、明治から戦前までの法曹等については、拙稿「『自歴譜』『東西両京の大学』『司法権の独立とその擁護者』」法曹626号24頁にも記した。
4 現行刑訴法の制定過程及び初期の運用状況
⑴ 第二次世界大戦後の連合国による占領下において、旧刑訴法は全面改正の対象となり、日本国憲法施行に伴う応急措置法を経て、現行刑訴法が昭和23年7月10日に制定され(法案は5月27日国会に提出。一部修正)、昭和24年1月1日から施行されるに至ったが(刑訴規則も同日施行)、その過程において、GHQの方針により米国法の影響が強く及び、起訴状一本主義、訴因制度、伝聞法則の採用、予審制度の廃止、捜査機関への強制捜査権限付与等が実現したが、日本人にとっては、立法の過程と米国法の学習の過程は重なっていたというほかない。戦前の文献を調査しても、職権主義を基調とした旧刑訴法を英米流の当事者主義に近付けるべきであるとの有力な議論は見当たらず、GHQの意向がなければ、予審制度の廃止と捜査機関への強制捜査権限付与はともかくとして、起訴状一本主義等の採用はあり得なかったように思われる(なお、西ドイツは当事者主義化を拒絶している)。
刑訴法は、予審制度を廃止したのに、職権主義的な総則規定を旧刑訴法から引き継いでいるし、起訴状一本主義を採用したのに、職権尋問を原則とする304条は残されたままであり(交互尋問方式のルールは、昭和32年に刑訴規則に定められた)、当然に必要になる証拠開示に関する規定や、審理計画を定めるための手続規定を欠いているのである(「捜査」に関する規定が「第2編 第1審」の「第1章」として置かれているのも、極めて不体裁である)。刑訴法は、このままでは重大な欠陥を有する不完全な法典であり、占領の終了後国力の回復を待って、全面改正されるべきことが当然の前提とされていた(渡辺咲子「制定過程から見た現行刑訴法の意義と問題点」ジュリ1370号35頁参照。井上正仁ほか編『刑事訴訟制定資料全集 昭和刑事訴訟法編』は現在8巻まで刊行されているが、起訴状一本主義等の導入が決められた昭和23年3月~5月の資料の整理・刊行が切望される)。
⑵ 刑訴法が導入され、検察官が法壇から降りて、弁護人と同じ高さの席に座るようになったことは、弁護人にとって大歓迎であった。しかし、起訴状一本主義が採用され、しかも証拠開示に関する規定が設けられなかったため、捜査段階で収集された証拠は、検察官が独占することになった。旧刑訴法下においては、捜査記録は、裁判所に引き継がれており、予審記録とともに、いわば裁判所、検察官、弁護人が共有するものであったが、これと著しく状況が変わったのである。通常の刑事事件について、検察官による広汎な証拠開示の姿勢が定着するまで、弁護人の困惑・戸惑いは大きかったようである。第1審の裁判官についてみると、「実にありがたい改正であった。公判開廷前に膨大な記録を読むわずらわしさから完全に解放されたうえに、常に新鮮な気持ちで公判にのぞむことができたからである」との受け止め方がある(鈴木忠五『一裁判官の追想』(昭和59年・谷沢書房)322頁。著者は三鷹事件《史録・戦後393頁》の裁判長として著名)反面、複雑困難な事件、公安労働事件では、早期に終局を見越した審理計画を立てることがほぼ不可能になったことへの困惑・戸惑いも大きかったようである。また何よりも、刑訴法は当事者主義を基調とするものであるとして、当事者の主張・立証活動が公判手続の大半を占め、裁判所の職権活動は補充的なものにとどめるべきことが強調されたが、そうだとすると、検察官・弁護人の力量・熱意の高低によって、同じ事案であっても、有罪・無罪や量刑の結論は異なって当然であるはずなのに(凡庸な弁護人がついたのであれば有罪になったであろう事件でも、無罪請負人などと呼ばれる腕っこきの弁護人が付けば無罪になりうる)、判決の結論については、主として裁判官(特に裁判長)がその責任を負うべきであるとの観念に余り変化はなかったようである(この点は裁判員制度の導入まで余り変わらなかった)。
昭和32年頃までの刑訴法の運用状況については、「座談会・岐路に立つ刑事裁判」(判タ46号~73号に9回に分けて掲載)が、昭和40年頃までのそれについては、「座談会・日本の法廷--その理想と現実」(判タ164号~179号に8回に分けて掲載)があり、現在読み返しても感慨深い(出席者の裁判官には、後にその謦咳に接した方が多い)。
5 メーデー事件・東大事件・連続企業爆破事件等の集団的公安事件
⑴ 私は、司法修習時代には横川敏雄判事(配属部の統括)や小野慶二判事(刑裁教官)等の薫陶を受け、東京地裁刑事部での新任判事補時代は、昭和44年4月熊谷弘裁判長(12部)の下でスタートした(熊谷判事には、『真実一路』(昭和57年・日本評論社)という自伝的著書がある)。その頃までには、横川判事もその推進者の一人である集中審理方式が、一般の刑事事件ではほぼ定着していたが、任官した頃は、600名余りが起訴された東大事件(史録・戦後23頁)の公判の開始時期、すなわち「荒れる法廷」が最盛期を迎えつつある時期であった。私は同年8月新関雅夫裁判長(12部の2係。新関判事は改定を重ねている『令状基本問題』(一粒社)の編著者の一人である)の下に移り、東大事件等の集団的公安事件を多数担当したが、昭和46年1月にメーデー事件の残務を終えた11部を新関裁判長とともに引き継ぐことになった。裁判官室を移動した同年3月までの約1年半は、大部屋に熊谷裁判長と新関裁判長の2つの合議体が同居し、私にとっては、大いに勉強になる日々であった(熊谷裁判長の陪席をされた金谷利廣判事《後の最高裁判事》にはこの頃からご指導を仰いでいる)。東大事件は、単独審理を希望する者を除く450名余りの被告人が37グループに分けられて16か部に配点され、審理が開始されたが、このように同種事件を抱えている裁判官には、他の部の状況を速やかに把握したいとの要望が強く、これに応えるために部内速報を作成することになり、21期の判事補5名(金築誠志・竹﨑博允・原田國男・本井文夫と私)が取材等の下働きを担当し、各部の法廷や裁判官室を訪れる日々を送った(手持ち資料では、昭和46年1月の第30号が最終)。裁判長毎に訴訟指揮等は異なるが、それぞれに持ち味を生かして、審理を軌道に乗せるように大変な努力をしておられ、被告人らの真摯な主張には耳を傾けようとしていた点では、一致していた(その一例が熊谷・前掲書129頁以下に詳述されている)。
⑵ 上記のとおりメーデー事件担当部を引き継ぐことになる前後から、その担当裁判官と接する機会が増え、刑事補償請求事件の処理の関係で、訴訟記録を閲覧する機会もあったので、メーデー事件(史録・戦後191頁)について、若干記しておく。
同事件では、1200名余りが起訴され、260名余りが騒擾罪(現在は騒乱罪。以下「騒乱罪」という)等で起訴された。統一公判を要求する被告人・弁護人に対し、裁判所が8グループに分け、8か部で審理する案を示すと、被告人らは「我々を八つ裂きにするのか」と反発し、拘置所で暴力を振るったり、裸になったりして抵抗したため、各部の公判期日に被告人らを出廷させることが不可能になり、公判開廷ができない事態が続出し、結局、裁判所も統一公判請求を呑まざるを得ず、全被告人を1か部(11部)で審理することとなった。
このメーデー事件が主たる契機になって、昭和28年に刑訴286条の2が新設され、この種の出廷拒否戦術がとられても、裁判所は被告人不出廷のまま公判審理(及び判決)ができることとなった。この規定がなかったとすれば、東大事件等でも統一公判要求への対応は困難を極めたであろうと思われる。
メーデー事件は補充裁判官3名を含む6名の裁判官で審理されたが、弁護人側の提案により6組に分けられ、総論立証段階では、各組が交代で出廷し(各組の代表者は1名ずつは全期日に出廷)、各論成立段階では各組をそれぞれ一人の裁判官が担当することとなった。この審理方式では、公判に欠席した被告人が、出席被告人の公判調書等に同意するという約束が前提になるところ、被告人側は審理途中で紛議が起きると、この同意協定の破棄を宣言したり、これをほのめかすなどして、裁判所の妥協を引き出している。公判は紛議での中断期を除けば、月に12回前後も開廷されているが、それでも審理は昭和28年2月4日の第1回から昭和41年3月1日の結審まで13年余りかかっており(罪状認否までに60開廷、論告に38開廷、弁論等に59開廷を要している)、判決(237名に対する一部有罪・一部無罪)は昭和45年1月28日(判時579号86頁)及びそれ以降5月6日までに宣告されている(「座談会・メーデー事件判決」ジュリ446号20頁以下参照)。審理においては、証人尋問中の意義を巡る応酬やその決定に時間が費やされ、総論立証の初期段階で、デモ隊の弁当のおかずが梅干しであったか卵焼きであったかなどが争われ、かなりの時間が費やされている。
メーデー事件を担当した最も若手の裁判官は、勝俣利夫判事(補)(司法省司法研修所で昭和22年3月修習修了。後に東京地裁所長)であり、同事件終了後、通常の刑事事件を担当するためのリハビリが必要ということになり、私がその担当者とされ、通常事件数件の裁判長を同判事が務め、私が陪席の一人として、訴訟進行のシナリオ・マニュアルを作成し、横から声を掛けるなどして補佐し、合議の進め方、判決書の書き方等をお話した(同判事からは後々まで先生扱いされる光栄に浴した)。余談ながら、メーデー事件の教訓と刑訴法286条の2の新設がなかったとすれば、私が東大事件に20年ほど貼り付けになり、後輩からリハビリを受けることになったかもしれない、などと想う今日この頃である。
刑事補償請求事件については、一部無罪確定・一部有罪未確定の場合につき、消極説(一括請求説)を採用し(東京地決昭47•10•6判タ285号242頁)、後に私が調査を担当した最一小決昭59•11•30刑集38巻11号3008頁でも同様の結論となり、判例解説において往時の勉強を生かすことができた。
メーデー事件については、一部有罪の被告人102名が控訴し、昭和45年12月末に訴訟記録が東京高裁に送付された。東京高裁(6部)は極めて迅速に記録を精査し、事実取調の範囲を限定して23回の公判で結審し、昭和47年11月21日、騒乱罪は全面不成立とし、84名につき原判決破棄・無罪、騒乱罪以外で有罪の7名につき控訴棄却、騒乱罪と他の罪で有罪の9名につき、原判決破棄・騒乱罪無罪・他の罪有罪の判決を宣告した(高刑集25巻5号479頁。上告なく確定)。荒川正三郎裁判長、谷口正孝判事(後に最高裁判事)、柳瀬隆次判事(後に司法研修所長)のご努力には頭が下がる(3判事とはいずれも後にご縁ができ、当時のお話を伺っている)。
この事件の第1審は、誰が裁判官であっても、さほど審理期間は短縮できなかったであろうと思われるが(もっとも結審後判決宣告までの期間は別である)、控訴審は裁判官次第では大幅に長期化した可能性があったと思う。
⑶ 私は、新関裁判長の下で、東大事件ほか数グループの集団公安事件の審理・判決に関与した上、共産同赤軍派による大菩薩峠事件(昭和44年11月5日に鉄パイプ爆弾を所持して大菩薩峠に集結していた赤軍派53名が一斉逮捕された事件)の統一公判要求者(18名)の審理を開始していた。昭和47年4月に鬼塚賢太郎裁判長が新関裁判長の後任として着任されたが(鬼塚判事は直前まで最高裁調査官であり、その仕事の話も沢山して下さり、後年大いに役立った)、大菩薩峠事件だけは司研教官に転じた新関判事が引き続いて担当され、私も主にこの事件の関係で東京地裁に残留し、昭和49年6月10日に被告人16名に対する判決(刑裁月報6巻6号651頁)を終えた。私は同年7月から1年間米国に滞在し、昭和50年7月に徳島地家裁に転勤したが、東京地裁時代には、令状部(14部)にも断続的に相当長期間勤務し、集団的公安事件の大量勾留に何度も関与し、荒れる勾留理由開示法廷も100回以上経験している。
⑷ 私にとっては、かなり後のことになるが、最高裁調査官(刑事)を務めた際、連続企業爆破事件(昭和49年8月30日の三菱重工ビル爆破事件は8名の死者と165名の重軽傷者を出したが、この事件を中心とする一連《16件》の爆破事件。起訴は昭和50年6月・7月)の調査に関与し、記録を精読する機会を持った。被疑者段階で自殺した者、起訴後クアラルンプール事件およびダッカ日航機ハイジャック事件で海外に逃亡した者もあり、第1審判決(昭和54年11月12日刑裁月報11巻11号1383頁)を受けた被告人は4名であり(死刑2名、無期懲役1名、懲役8年1名)、その4名が控訴審判決(昭和57年10月29日高刑集35巻3号194頁・各控訴審棄却)を経て上告審に係属していた(昭和62年3月24日上告棄却判決・判時1228号22頁)。様々な論点を含む興味深い事件であったが、特に指摘しておきたいのは、第1審の審理経過であり、裁判長の公判期日の指定を不満として弁護人(私選)が不出頭・辞任戦術に出た上、東京3弁護士会からは国選弁護人の推薦がなされなかったため、裁判所は旧私選弁護人の要求(月2回の開廷ペース)を呑まざるを得なくなっている。しかし、このような弁護活動に対し厳しい批判の目が向けられるようになり、昭和53年3月「刑事事件の開廷についての暫定的特例を定める法律案」が国会に上程され、その影響もあって、弁護人も訴訟進行に協力的となり、事件の規模・証拠の分量からすると比較的早期に第1審判決に至ったといってよい。昭和51年7月から判決に至る間の簑原茂廣裁判長の訴訟促進に向けた粘り強い姿勢には敬服するほかない。また、上記法律案については、「座談会・刑事事件公判開廷暫定的特例法案」ジュリ664号102頁以下があり、金谷利廣判事の発言は、この種事件に悩まされる多くの刑事裁判官の気持ちを適確に代弁するものとして感動的であり、また論争の手本ともいうべきものと今でも思っている(法曹三者間の合意や法律案廃案の経緯は省略)。
⑸ このように、私は集団的公安事件に関する実務経験は豊富であり、荒れる法廷に対処するための様々なノウハウを収集・蓄積し、若干は開発もしてきたものである。しかし、その後、このような経験やノウハウを伝承する機会がなかったのは、やや残念な気もするが、私にとっても後輩裁判官にとっても幸運なことであったと思っている。
6 精密司法といわれる我が国の刑事裁判実務の実情等
⑴ 司法修習時代にはミランダ判決を、新任判事補時代にはマコーミック証拠法(伝聞証拠部分)を、輪読するなど、米国法にかなり興味を持っていたし、その頃、田宮裕教授等により、ウオーレンコートの諸判決が好意的に紹介されており、実務家にも強い影響を与えていた。しかし、昭和45年頃からは、当事者主義化への懐疑論も出始め、米国法の実務への影響は弱まってきたように感じられた(石井一正『刑事訴訟の諸問題』83頁と同感である)。米国の刑事司法の実際を直接見聞して、学ぶべき点とむしろ反面教師とすべき点を見極めたいとの思いから、米国での在外研究を希望し、前述の昭和49•50年の在米期間中、主としてデトロイトの裁判所で刑事裁判の傍聴をし、米国の裁判官•検察官•弁護士と接する機会を多く持つようにした。そして、我が国の刑事司法と米国の刑事司法とは全く異質なものであって、刑事司法全体としては、答弁取引により大多数の事件が処理されている米国よりも、我が国の方が遥かに優れているように感じられた。もっとも、私のような外国人傍聴者にも分かり易い、陪審裁判(特にその連日的開廷と検察官•弁護人の法廷技術)には学ぶべき点が少なくないと思った。また、米国の法律家と付き合ってみると、その主たる関心は手続上の権利の尊重であり、「事案の真相」解明への熱意は乏しいように感じられた(被告人の手続上の権利が十分に保障されている法廷で、陪審により下された結論は受け入れるしかないとの考えが支配的)。ある高名な弁護士は、被疑者との最初の面会で、「真実を語るな。一番聞きたくないのは真実なんだよ。真実を知ってしまうと、弁護の妨げになるかもしれない。自分が知りたいのは、真実ではなくて、むしろ君が陪審に信じてほしいと思う物語だ。15分ほど休憩をとるから、その間に君が信じてほしいと思う物語をじっくり考えなさい。私が戻ったら、その話を聞かせてくれ」と言うことにしているそうであるが(ダニエル・H・フット「日米比較刑事司法の講義を振り返って」ジュリ1148号168頁)、このような弁護士は例外的ではないと感じている。要するに日本の法律家と米国の法律家では、事実観や裁判観が大いに異なるようである(米国では、DNA鑑定が無実を証明する事例が続出しており、The Innocence ProjectのHPによると、2014年8月現在、その人数は317人である。我が国では、足利事件が衝撃的であったが、そのような事例が100件以上も出現すれば、刑事裁判に対する国民の信頼は崩壊するであろう)。なお、私の米国での見聞は座談会「諸外国の刑事法廷」法の支配28号6頁以下で報告している。
⑵ 米国から帰国後、徳島地家裁時代(昭和50年7月~昭和53年3月)は、本庁で民事•家事•少年を担当したが、週1回阿南支部を填補して、民事•家事とともに、刑事を担当し、毎週6件前後の単独事件を処理した。国選弁護人も同支部係属事件は全件一人の弁護士が推薦されるので、毎週約6件の新件を約40分で同意書証の取調べまで審理し、翌週に約80分でこれらの事件の証人尋問•被告人質問等を終え、原則として即日判決を宣告する、というプラクティスを考案・実践していた。その日に、私は民事・家事事件も多数処理しなければならず、国選弁護人は新件の身柄被告人との接見をしなければならない、という事情もあったからである。第1回公判期日では、書証の要旨告知は極めて簡略に済ませ、その後速やかに記録を精読して、国選弁護人と第2回公判期日の時間配分等を協議し、法廷の時間を効率的に使用するように努め、米国で学んだ速戦即決の精神を応用したつもりであった。
那覇地家裁時代(昭和53年4月~昭和55年3月)は、主として刑事事件を担当した。米軍人による事件も多かったが、自白事件では、弁護人が我が国流の情状立証・弁論をし、米軍法務官も好意的に見てくれていた。書証の要旨も通訳を介して丁寧に行い、第1回公判での即決も少なくなかった。また、平良支部(宮古島)や石垣支部(石垣島)の法廷合議事件は、本庁から二人の裁判官が填補し、なるべく1日で審理を終え、翌朝判決を宣告するという裁判員裁判並みのスケジュールであり、ある殺人の否認事件では、3日間連続して開廷し、約20名の証人尋問と被告人質問を行い、判決(無罪)はもう一度出張して宣告した。
⑶ さて、私が精密司法あるいは「詳密な審理及び判決」(石井•前掲書9頁)にどっぷりと漬かるようになったのは、昭和55年4月に再び東京地裁勤務となってからである。まず、小野幹雄裁判長(後に最高裁判事)の右陪席として、日石土田邸事件(分離組•被告人1名)の審理に関与することとなった。その被告人は土田邸事件(昭和46年12月18日警視庁警務部長土田氏宅で小包爆弾が爆発し、同氏の妻が死亡し、四男が重傷を負った事件)のみで起訴されたが、証拠上、日石事件(同年10月18日新橋の日本石油ビル地下の郵便局で小包爆弾が爆発し、局員1名が重傷を負った事件)と密接に関連するため、日石事件関係の証拠調べ等も不可欠であった。共犯者やその取調べ捜査官の証人尋問が、一人につき全一日で平均7,8開廷を要するという詳密さで審理が進められ、しかも、裁判官の交替毎に公判手続の更新で数開廷を要していたが、私が関与した頃は、審理は終盤に差し掛かっており、着任早々から膨大な記録読みに没頭した。小野裁判長が、このまま裁判所の構成を変えないで判決をするつもりであるから、審理促進に協力を願う旨当事者に言明した直後の昭和56年2月に最高裁刑事局長への転出を余儀なくされ、早川義郎裁判長が引き継ぐことになり、日夜記録読みに没頭されることとなった(その間、若干ゆとりができた私は、同年4月から1年間、東京都立大学で非常勤講師(夜間)として刑訴法を講義した)。早川裁判長は、私の転勤予定時期である昭和58年3月までの判決宣告を予定し、それから逆算して審理計画を立て、当事者の協力を求め、記録及び証拠物を精査する過程で気付いた疑問点を、検察官及び弁護人に説明し、補充的な立証を促すなどして、昭和58年3月24日に無罪判決(判時1098号3頁)を言い渡した(検察官控訴はなく確定)。膨大な判決書からも、裁判所の「事案の真相」の解明に対する情熱を感じ取ることができるであろう。なお、若干問題はあるにせよ、被告人・共犯者の自白調書の証拠能力は否定せず、信用性を徹底的に検討して、白に近い無罪の結論を導いている。このことが、統一組(その第1審判決《東京地判昭58•5•19判時1098号211頁》は多くの自白調書の証拠能力を否定した上で無罪としたもの)の控訴審判決(東京高判昭和60年12月13日刑裁月報17巻12号1208頁)にも影響を及ぼしたようである(小林充『裁判官の歳月』59頁以下参照)。
この日石土田邸事件の弁護人(特に後藤昌次郎)が繰り返し、松川事件(史録・戦後415頁、第2次上告審判決は昭和38年9月12日刑集17巻6号661頁)や青梅事件(史録・戦後25頁、第2次控訴審判決は東京高判昭和43年3月30日判時515号30頁)を教訓にするように力説したこともあって、これらの事件について、各審級の判決書のほか評釈・研究書・回想録等(特に、広津和郎『松川裁判(上)(中)(下)』中公文庫)を参酌してみた。多数共犯者間における自白の伝播過程など、驚くほど共通の議論がなされており、判決起案において大いに参考になった。なお、松川事件においては、第1次上告審で、「諏訪メモ」が最高裁大法廷の提出命令により顕出され、第2次控訴審で、検察官から捜査段階の供述調書等1600余通が提出されているところ、思うに、第1審裁判所にこれらの証拠が提出されていたとすれば、初めから誰に対しても有罪判決は宣告されなかったのではなかろうか。証拠開示規定の不備が裁判の長期化及び途中における死刑等の判決宣告の根本原因になっているように思われる(旧刑訴法下では、このような事態は起こり得なかったであろう)。
⑸ 昭和58年4月以降も東京地裁に残り、単独事件を審理しつつ、日石土田邸事件の判決書の完成に努め(当時は判決原稿は未だ手書きであり、大部のものは印刷を外注していた)、同年7月に最高裁調査官を拝命した。調査官時代は、複雑な事件については、精密司法下における詳細な1,2審判決を、上告趣意書が指摘する点を中心に、厚い記録を読みつつ、これまた詳密に検討するという作業を重ねていたが、特筆すべきはロッキード事件(史録・戦後345頁)である。丸紅ルートの田中角栄元総理大臣ほか3名からの上告事件が、昭和62年秋に最高裁に係属し、私は全日空ルートも併せてその調査を担当することとなり、通常よりは長く調査官にとどまって、昭和63年の後半から平成元年初めまでその記録読みに追われたが(途中約4か月はこれに専念)、裁判官による検討にはなお相当期間を要する見込みとなったので、同年4月に調査を途中で他の調査官に引き継ぎ、大阪高裁に転出することとなった。多数の文献のある著名事件であるから、詳細は省くが、1,2審ともに、まさしく精密司法の極致ともいうべき詳密極まる審理(1審は月4回の開廷ペース)及び判決であったとの感を深くしている。全日空ルートは最三小判平成4年6月25日刑集46巻4号51頁(その判例解説末尾に私の名前も付記)で、丸紅ルートは最大判平成7年2月22日刑集49巻2号1頁で、上告が棄却された(各ルートとも被告人の一部は上告審係属中に死亡)。
私が調査を担当して、事実誤認等により原判決破棄に至った事例としては、最三小判昭和59年4月24日刑集38巻6号2196頁(波谷事件)、最二小判昭和63年1月29日刑集42巻1号38頁(鳴海事件)、最二小判平成元年4月21日判時1319号39頁(新潟轢き逃げ事件)、最一小判平成元年10月26日判時1331号145頁(板橋強制わいせつ事件)等があるが、いずれも相当詳細な上告審判決となっている。
⑹ 私は平成5年6月から平成10年3月まで、東京地裁(刑事8部。租税事件専門部であるが、一般事件も担当)で部総括を担当した。着任当時、巨額脱税事件(金丸信元自民党副総裁の事件等)や大型経済事犯が相当数係属していたが、すでに長期間審理していて結審が間近に迫っている事件もあり、早速それらの記録読みに追われた。このような終盤での引継ぎ事件については、判決までの日程の目安を立てつつ、証拠関係を整理し、当事者に補充的な立証を促し、詳密な判決が書けるように準備するという緻密な作業の連続であり、それなりに充実感を覚えていた。問題は、審理半ばで引き継いだ事件であり、重要証人毎に数開廷ないし十数開廷を費やしての長時間の証人尋問が続いており、検察官・弁護人ともに多くの供述調書類を前提にして微に入り細を穿った尋問をしているが、供述調書類を見ていない裁判所としては尋問の制限は困難であり、審理はいつ終わるのか予測がつかない事件もあった。公判期日の前後に検察官・弁護人と打合せを重ねるなどして、審理の促進に努めたが、それでも歯痒い思いをすることが多かった。また、複雑困難な新件も続々と係属したが、初期段階では詳細な審理計画を立てることができず、いつ頃判決できるのかの見通しが立たないまま、証人尋問等を進めるということも少なくなかった(速戦即決とはほど遠い、このような審理が続くのは、もう勘弁してもらいたい、とも思っていた)。なお、審理途中で、検察官に対し証拠開示を強く勧告することもあり、応じてもらったことも少なくない(開示された証拠を無罪判決に援用したこともある)。想い出に残る著名事件の審理・判決や無罪判決も少なくないが、割愛する(この間の平成8年から平成10年3月まで、東京都立大学で非常勤講師(土曜午後)として、大学院生に刑法判例の研究会的な特殊講義を担当した)。
⑺ 私は、平成元年4月から平成4年3月まで(大阪高裁。吉田治正・重富純和各裁判長)、同年4月から平成5年6月まで(東京高裁。近藤和義裁判長)及び平成10年4月から同年6月まで(東京高裁。松本時夫裁判長)、陪席裁判官として、平成12年1月から平成21年8月まで、東京高裁(2刑)で部総括として、いずれも刑事控訴審事件等を担当した。
ごく大掴みに、控訴審担当時を通じての私のスタンスを振り返ってみると、量刑については、原審の量刑が適正な幅の範囲内にあると認められる限り、原審の判断を尊重するが、事実認定については、いわゆる真相解明型であり、記録を検討して疑問が残る場合には、検察官や弁護人に立証を促すなどして、その解明に努めてきたつもりであるし、上記の各裁判長もほぼ同様のスタンスであったように感じていた。また、検察官に対する証拠開示の勧告にも積極的で、控訴審段階では、検察官も柔軟に対応してくれることが多かった。すなわち、最高裁では、証人尋問等は不可能であって、控訴審が証拠調べに関しては最終審であるから、審理を尽くしておくべきであるとの感覚があったのである(平成18年以降の原審で公判前整理手続を経た事件は、別論である)。そして、かなり多数の著名事件判決や逆転無罪判決のほか、比較的少数の逆転有罪判決に関与しているが、詳細は割愛する。
控訴審においては、複雑困難な事件でかなりの事実取調べが相当と思われる事件でも、第1回公判期日前に、判決までの審理計画は立てられるのであり、この点は第1審とは大いに異なる(なお、平成18年9月から定年退官までは、中央大学法科大学院の非常勤講師として、土曜日に刑訴実務基礎・刑事法総合Ⅲを担当し、相当忙しい日々を送った)。
⑻ 振り返ってみると、私は証拠開示や争点整理の手続が未整備の時代に、刑事裁判を担当してきたのであり、関与した多数の有罪判決の中には、検察官が重要な証拠を開示しないままであったかもしれない、という懸念が残るものも少なくない。
7 平成の司法制度改革(裁判員制度・公判前整理手続等の導入)
冒頭に記載した第3の節目である平成の司法制度改革は、平成11年7月に内閣に司法制度改革審議会が設置され、平成12年11月の中間報告(ジュリ1198号の特集参照)を経て、平成13年6月に意見書(ジュリ1208号の特集参照)がまとめられたことに端を発する。その意見書における提言を踏まえて、刑事司法の関係では、平成16年5月に裁判員法(略称)の制定及び公判前整理手続等を導入する刑訴法改正がなされるに至った(その間の経緯、起訴強制を導入した検察審査会法の改正、被疑者国選弁護・被害者参加に関する刑訴法改正等の説明は省略)。私は松山家裁所長時代(平成10年7月~平成12年1月)から、以上のような審議や立法の動向に注目し、裁判所部内の多くの検討会・研究会等にも加わって検討を続けてきた。裁判員制度の導入は、司法界内部の多数意見によるのではなく、政治・行政部門のリードにより、実現したと評すべきであり、裁判所内部でも当初は消極的意見や懐疑論も有力であったが、徐々に消極的受容論が一般化していき、裁判員法がほぼ全会一致で成立した後は、法曹三者の無理解・非協力により、裁判員制度を頓挫させてはならない、国会で決められた以上は、裁判員制度の良い面を育てていくよう、努力していくほかない、という気運が高まっていった。法曹三者の献身的な普及活動、全国各地での多数回にわたる模擬裁判の実施(その反省会・検討会も含む)、法曹三者それぞれの立場からの熱心な研究の積み重ね等の準備が進められた。私は、陪審制ではなく、参審制に近い裁判員制度が採用されたことは、幸いであったと思うし、何よりも、その前提として、証拠開示の法整備を伴う公判前整理手続が導入されたことは、現行刑訴法の当初からの重大な欠陥を相当程度是正するものとして、歓迎する気持ちが強かった。また、重大事件で裁判員裁判による徹底した集中審理が実施されることにより、刑事裁判に対する法曹三者の意識改革が進み、裁判官裁判でも従前のような極めて長時間にわたる証人尋問等が姿を消していくことを期待したものである。私は裁判員裁判の開始後まもなく定年退官したので、その控訴審さえも経験できず、退官後はその行く末を見守ってきたにすぎない。裁判員制度は、この約5年間、順調に滑り出し、若干の問題点を抱えつつも、安定的定着傾向にあるといえよう。これは、我が国民の知的水準とモラルの高さの賜物であろうが、その間の法曹(特に裁判官)の努力を含めた実情については、本書の各稿を参酌されたい。
8 今後の課題・展望
以上のとおり、我が国の刑事裁判は、明治初期以来現在に至るまで多くの変遷を辿っているが、私が任官した頃と現在でも著しく様相を異にしているし、現在も変動の過程にある(第1及び第2の節目は我が国が外部から強制された面が強く、第3の節目は司法界が政治部門等に強制された面が強いが、いずれも幸運であったように思われる)。以下、限られた経験と知見に基づいて、私が今後の課題・展望として考えていることのうち、他の人があまり触れないであろうことを選んで記しておく。
⑴ 現行刑訴法の制定過程及びその欠陥等は、前記4⑴のとおりであるが、GHQの意向と摺り合わせつつ制定された俄普請ともいうべき法典は、部分改正を重ねつつ施行後65年を経過している。早急な実現が困難であることは十分承知しているが、裁判員制度の更なる定着を踏まえて、分かり易い(大多数の教科書の記述順序にしたがった)新法典の制定が切望される。ちなみに、治罪法は9年間、旧旧刑訴法は33年間、旧刑訴法は25年間(昭和18年まででは20年間)施行されたにすぎない。
なお、裁判所法施行後現在までの67年間、司研裁判教官及び最高裁調査官には例外なく現職の裁判官が当てられているのに、そのような人事は「当分の間、特に必要があるとき」に限るとの附則(3項)が存置されたままである。我が国では現実と乖離した法文を存置し続けることに抵抗感は乏しいようである。
⑵ 証拠開示の規定が、現行法のまま(あるいはこれに若干の手直しをする程度)でよいのかの検討も必要であろう。近年は検挙された刑法犯の半数以上が少年によって犯されているという状況が続いており、そのほとんどは少年保護事件として処理されているところ、捜査等の記録は家裁に送付され、審判開始決定後は、付添人には閲覧(少年審判規則7条2項)及び謄写(許可が通常)が認められている。私は少年事件を合計4年余り担当したが、否認事件で、全証拠が開示されていることから、これらと矛盾しないような弁解を構えられて困ったなどという経験はしていないし、また、そのような経験を他の裁判官から聞いたこともない。また、旧刑訴法時代に、捜査及び予審記録に弁護人がアクセスできることの弊害があったのであろうかも、気になるところである(もっとも、これらの手続では、捜査等の記録を裁判所が保管し、裁判官も見ることができる。当事者間における証拠開示とは様相を異にする)。刑訴法を全面改正するのであれば、その点も含めて検討してよいように思われる。
⑶ 勾留中の被疑者が同一事実で起訴されれば、裁判官の審査なしに自動的に2か月間の被告人勾留が始まるという規定(60条2項、208条)の運用状況には、理論的にも実務的にも多くの問題があることは、かつて指摘したことがあるが(最高裁判例解説刑事篇昭和59年度465頁参照)、旧刑訴法下のように捜査記録が裁判所に引き継がれないのに、旧刑訴法113条と同旨の規定を置いたことに根本原因があるように思われる。受訴裁判所によるアクセスの可否等については、慎重な検討が必要であるが、少年事件のように、捜査記録(その謄本)はすべて裁判所に送付され、裁判所が保管することとする(弁護人のアクセスも認める。捜査の進展があれば、関係書類を追送させる)ことも一案であろう。なお、60条2項によれば、起訴後の勾留は原則として2か月以内であって、「特に継続の必要がある場合」「具体的にその理由を附した決定で」1か月毎に更新できると規定されているが、複数回(多数回)の更新は常態化しており、決定には定型書式の簡略なものが常用されている(344条も60条2項但書の適用を外すだけであるから、控訴審・上告審でも2項本文の適用はある)。これも現実と甚だしく乖離した規定である。
⑷ 郵便不正(村木厚子氏無罪)事件での検察官によるFD改ざんの発覚以来、検察に対する批判は強まり、平成22年11月から12月にかけて、最高検も同事件を検証し、私もそのアドバイザーを務めたが、それ以降も、検察改革は急ピッチで進められてきた。しかし、検察に完璧を求めることは、有罪率を限りなく100%に近付けるべきだということにつながりかねない。私は、検察官は有罪の確信がなければ起訴すべきでないという慎重な起訴の在り方は、(検察審査会の起訴強制制度導入後も)基本的には維持されるべきであるが、証明不十分による無罪判決を過度に恐れるのも問題であり、裁判所が無罪判決をする余地は現在より若干拡大した方がよいと思っている。前記事件についてさえ、被告人には気の毒であったが、検察官が起訴したからこそ、弁護人及び裁判所は立派な仕事ができたともいえよう。たまには無罪とすべき事件に遭遇するというのが、裁判官や裁判員の仕事の遣り甲斐を大きくするのである。ちなみに、無罪率は、旧旧刑訴法時代が最も高く、旧刑訴法時代は相当低くなり、現行刑訴法施行後しばらくしてからは、更に大幅に低くなっているようである(佐伯千仭「刑事訴訟法の40年と無罪率の減少」ジュリ930号16頁以下参照)。
⑸ 裁判員裁判においては、精密司法から核心司法への移行は当然のこととして、裁判所は真相解明型審理から評価型審理に移行せざるを得ないであろう。弁護人の力量・熱意によって、有罪・無罪の結論が左右されることもあり得るのである(公判前整理手続においては、証拠内容を知ることができない裁判所の後見的役割には大きな限界があるし、公判のスケジュールはそこで決まってしまうのである)。また、直接主義・口頭主義が強調される法廷では、検察官・弁護人の尋問技術の巧拙や証人・被告人の性格・心身の状態によっても、判決の結論が左右されて当然なのである。事案の真相を重視する我が国の法曹・国民が、このような裁判の在り方を末永く支持し続けるのであろうか、不安でもある。これと関連して、裁判員裁判による有罪の確定判決に対する再審の在り方は、従前と同様でよいのであろうか。再審請求審で、公判前整理手続で行うことが可能であった証拠開示請求がなされた場合、検察官はこれに応じてよいのか、確定審は証人尋問や被告人質問のみで終えているのに、開示されていたその証人や被告人の供述調書を新証拠として提出できるのであろうか、等の問題があろう。これらを緩やかに認めるのであれば、裁判員裁判は一体何であったのかということになり、その在り方にも影響するであろう。
⑹ 裁判員裁判に対する控訴審の在り方も、控訴審裁判官がすべて裁判員裁判経験者で占められる時代になると、かなり変わってくるのではないかと予測している。裁判官は、控訴審を担当するときも、目の前の被告人に対して、自分が適正妥当だと確信できる判断をしたいと切に思うものであり、これが健全な職業意識であることに変わりはないであろう。なお、従来は、東京高裁のベテラン裁判長が司法研修所で若手裁判官に対し自己の体験等について講話することが慣例化していて、私の手許にも講話録が相当数たまっていて、よく参考にしていたが、記録の精査に基づく真相解明型審理の体験談が数多く含まれている。私もそんな機会に恵まれたならばということで、若干の準備はしていたが、時代の変わり目でお呼びではなくなった。将来、裁判員裁判やその控訴審を長年担当した高裁裁判長が、若手裁判官に対し、その仕事の醍醐味等につきどのような講話をされるのであろうか、楽しみにしている。
他にも触れたい点は少なくないが、この辺で稿を閉じたい。法曹を目指す学生や若手法曹には、歴史的視点を持って、本書を繙かれることを希望する。


人気ブログランキングへ